『道ありき』虚無の先に、何かが開ける。

 

【#3】三浦綾子『道ありき』(新潮文庫)

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*あらすじ

敗戦による混乱の中で、”自分自身の教えることに確信を持てずに、教壇に立つことはできない。と7年間続けた教職を辞した24歳の著者は、癒しようもない虚無感から二重婚約、さらには肺結核の発病により、絶望の底へ突き落される。本書は以来13年間の闘病生活の中に、自己の青春、愛、信仰を告白した心の歴史であり、著者の歩んだ苛酷な日々に、圧倒される感動の書である。

本書は三浦綾子氏自伝第一作目になる。第二作目『この土の器を』、第三作目『光あるうちに』を、私はまだ読むことができていない。近いうちに読みたいと思う。病床に臥しながら虚無に陥る三浦綾子氏の闘病生活は凄まじく、「世の中にはこれほどの苦しみをも乗り越えながら生きている人がいるのか」と、己の身体がいかに健康体であるか、であるならばその生をありがたく全うしようではないかと、そんなことを思わせてくれる一冊である。

 

1:虚無の中から愛を見出す。

虚無の中に陥ることがある。一日の終わりにベッドの上で横になり、真っ黒な闇を見つめながら様々なことを考える。「なぜ私は生きているのだろう」とか「なぜ宇宙は誕生したのだろう」とか、壮大な問いについて意味もなく考えたりする。そして、いろいろ考えたのち最終的に辿り着くところが『虚無』であった。健康体である私でも、それなりの虚無を抱えるのであれば、肺結核で何年もベッドに縛り付けにされている三浦綾子氏の抱える虚無は、計り知れないものであっただろうと思われる。しかし、そのような虚無を抱えながらも、三浦綾子氏は一人の誠実な男性に心を惹かれるのであった。『愛』。手垢のつきまくった言葉にはなってしまうけれど、それは確実に絶望のどん底にあった三浦綾子氏にとって希望の光となっていったに違いない。どのような状況にあろうとも、人間は常に生きる希望を見出そうとする生き物なのかもしれない、と私は思った。

(戦時中に、お前はまちがって信じたはずではないか。それなのに再びまた何かを信じようとしているのか)結局は、人間は死んでいく虚しい存在なのに、またしても何かを信じようとするのは、愚かだと思った。しかし、わたしはあえて愚かになってもいいと思った。

 丘の上で、吾とわが身を打ちつけた前川正の、わたしへの愛だけは、信じなければならないと思った。もし信ずることができなければ、それは、わたしという人間の、ほんとうの終わりのような気がしたのである。

三浦綾子『道ありき』(新潮文庫)p67

 

2:死ぬことを考える。

真っ黒な暗闇を見つめながら様々なことを考える中で、私もふいに『死』というものについて考えることがある。今、私は生きている。そして、いつかは必ず死ぬ。ひょっとすると明日死ぬのかもしれないし、今この瞬間に心臓は止まるかもしれない。そう考えると、やはり死ぬのは怖いなと思った。が、私は『死』ということについて何も知らないのである。死んだらどうなるのか、死ぬ直前私はどのようなことを考えるのか、当たり前のことだけれど私は何も知らない。もしかすると死んだ後の世界には、今生きているこの世界よりも美しい景色が広がっているのかもしれない。ではなぜ私は、何も知らない『死』ということについてこんなにも恐怖しているのだろうか。こんなことを考える私にとって、死の直前を経験した三浦綾子氏の言葉が、分からないながらも強く印象に残っている。

 この経験でわたしが得たものは、第一に、人間は死を恐怖しているが、いざとなると案外簡単に死を肯定するものだ、ということである。そして第二には、案外自分という人間を知らないで生きているものだということであった。自分が死ぬ時には、多分こうだろうなどと想定してみても、全く思いがけない一面をみせるものだと、つくづく思った。つまり、どれほどもわたしはわたし自身を知ってはいないということである。

三浦綾子『道ありき』(新潮文庫)p99~100

 

※余談

読む本はブックオフで購入している。一冊の本が、安いものであれば100円で手に入る時代に生きていることを嬉しいと思う。ある人は「誰かが既に触った本を手に取るなんて考えられない」などと言うけれど、私にとってそれは何の問題にもならない。世の中には、たった一人の人間がたった一回読んだのちに捨てられる本が大量にある。ブックオフの棚に並べられている本や誰かの手垢で黄ばんだ本を見て、むしろ私は「とても美しいな」とさえ思う。

 

3:虚無の先に、何かが開ける。

本書を読みながら「虚無を感じることは、それ自体そんなに悪いことではないのかもしれない」と思うようになった。自分がやっていることの全てに虚しさを感じるということは、多くの人にとって否定されるべき考え方なのかもしれない。だが、虚無を感じるからこそ際立つ『生きていることの喜び』は確実にあると思う。光と影の関係と同じように、三浦綾子氏が虚無の中にあっても人を愛した時と同じように、どのような状況下であってもそこに希望を見出そうとする人間の強さを、私は信じたいと思う。

「われわれが心に言いけらく、汝楽しみを極めよと、ああこれもまた空なりき。

 われは大いなる事業をなせり。わがために家を建て、園をつくり、もろもろの木々をそこに植え、また池をつくりて水を注がしめたり。われは僕婢(しもべしもめ)を買い得たり。われは金銀を積み妻妾(さいしょう)を多く得たり。

 かくわれは、すべての人よりも大いになりぬ‥‥‥。されど、みな空(くう)にして風を捕うるが如くなりき。日の下には益となるものあらざるなり」

 (中略)

 この地上にあるいっさいを、すべてむなしいと、徹底的に書いてあるのは、たしかにキリスト教らしからぬことに思えた。いったい何のためにこんなことを聖書に書いてあるのかと、わたしはふしぎに思った。聖書というものは、それまでの二、三ヵ月に読んだ限りでは、

「互いに相愛(あいあい)せよ」

 とか、

「人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ」

 などという教訓に貫かれているもののように思っていた。だから伝道の書のこの虚無的なものの見方は、わたしにキリスト教全体を見なおさせた。

 (中略)

 虚無は、この世のすべてのものを否定するむなしい考え方であり、ついには自分自身をも否定することになるわけだが、そこまで追いつめられた時に、何かが開けるということを、伝道の書にわたしは感じた。

三浦綾子『道ありき』(新潮文庫)p82~83

 

*まとめ

 本書のキーワードとなるのは『虚無』であると私は思う。そして、生きている中で何かしら虚無的な考えに陥りがちな人にとっては、何らかの破壊力を持った一冊になるだろう。この本に書かれてあることにどれくらいの修正が施されているのかは分からないけれど、自伝というだけあってそのほとんどがノンフィクションであるということを考えると、本当に、物凄い人生だなと思う。何年もの闘病生活の中で数多くの困難を乗り越え、ついには病気を完全に治し、愛する人と一緒になることができた。その経験を、彼女は本という形で多くの人と共有することになった。その背後には、ひょっとすると彼女が信仰していた、何か大いなるものの力(神的なものの力)がはたらいていたのかもしれない。