『読書について』知識は品性に現れる。

 

【#5】ショウペンハウエル著/斎藤忍随訳『読書について』(岩波文庫)

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*あらすじ

「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費す勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」―一流の文章家であり箴言警句の大家であったショウペンハウエル(1788‐1860)が放つ読書をめぐる鋭利な寸言、痛烈なアフォリズムの数々は、出版物の洪水にあえぐ現代の我われにとって驚くほど新鮮である。

 私はGoogleカレンダーに毎日の行動を記録している。本来カレンダーというものは今後の予定などを書くものだと思うのだけれど、私の場合、今後の予定などは一切書かない。常に自分の過去の行動を15分単位で精細に記録している。「朝食にはあれを食べた」「今日は快便で一日が始まった」とか、割とどうでもいいことまで事細かに記録している。先日、その記録から1か月間の読書時間というものを算出してみた。すると一か月間のうちの1095分を読書に費やしていたという結果が出た。これは多いのだろうか、少ないのだろうか。時間に直すと18時間15分。読了数が7冊だから、1冊あたりおよそ2時間半もかかっている。もっと早く本を読みたいなと思う。

 

 1:問いを生み出したい。

 Googleカレンダーに自分の過去の行動記録をつけると、半ば強制的に今日一日のことを振り返ることになる。生きていると色々なことが起こる。良かった日も悪かった日もある。私は結構悩みやすいタイプの人間なので、ベッドに入って横になってからも今日一日の出来事を引きずって眠れなくなることが多い。本書は『思索』についても述べられている。思索とは何だろうか。それはおそらく、答えを導き出すためのものではないのだと思う。『答え』を出すというよりかは『問い』を生み出す。できることならば自分だけが持つ問いではない、誰もが考えていそうな普遍的な問いについて考え、そこから新たな問いを生み出すということ、それが思索なのだと思う。その思索を誰かと共有することができた時、私は知的な喜びを見出すことがある。

 我々の存在、この曖昧な、苦悩にみちた存在、このつかのまの夢にも似た存在は、はなはだ重要なさし迫った問題で、一度この問題にめざめると、他の問題や目的はすべてその影におおい隠されるほどである。だがわずかの例外をのぞけば、すべての人々はこの問題に対して明白な意識を持たず、それどころかまったくこの問題に気づいていないようで、これとはまったく違った問題に心をくだき、ただ今日という日や、自分の一身につながる明日という同じくつかのまの時にのみ気をくばりながら、無為の日々を送っている。というのも彼らがこの問題を故意に無視しているか、この問題に関しては進んで何か俗流形而上学のようなものと妥協し、それで済ませているかのいずれかであるからである。さてこの問題の重要さをよく考え、それに対する人々の日常的態度に注目すれば、人間ともかくわずかに、広い意味での考える動物にすぎないという意見に到達し、以後は人間に無思慮、愚鈍の特徴を見いだしても、奇異の想いをいだくこともなく、かえって人間の真実を積極的に知ることになる。

―ショウペンハウエル著/斎藤忍随訳『読書について』(岩波文庫)p23

 

 2:簡潔に話したい。

『話す』のが苦手だなと思う場面が頻繁にある。私は、自分の話を簡潔に短い言葉で話したいと思っている。が、いろいろと説明不足になってしまうことがあって、後から言葉を補おうとするあまりに、なんだかまとまりのないダラダラとした話になってしまって、かえって伝わりづらくなるパターンが多い。自分で自分の話を「長いな」と思ってしまったらもう駄目で、そんなときは1秒でも早く自分の話を終わらせたくなる。自意識が暴走をする。結論を急ぎ過ぎるために、中身のない話になる。話し終えた直後、鈍い疲労に襲われる。そして「ああ、今日も上手く話すことができなかったな」と、寝る前になって自己嫌悪に陥る。

 真理はそのままでもっとも美しく、簡潔に表現されていればいるほど、その与える感銘はいよいよ深い。

―ショウペンハウエル著/斎藤忍随訳『読書について』(岩波文庫)p74

 

3:お前はどうなんだ。

 『読書について』というタイトルだから読書について書かれているのかと思いきや、本書にはショウペンハウエルの凡人に対する悪口がタラタラと書かれていた。読み進めていくうちにその内容は次第にエスカレートしていく。まるで居酒屋でショウペンハウエルの愚痴を延々と聞かされているかのような感覚を覚えた。私は、批判に躍起になっている人を見ると「お前はどうなんだ」と思う。誰かをあざ笑っている時の自分、誰かに罵詈雑言を浴びせている時の自分、その時の自分は醜い存在に成り下がってしまってはいないだろうか。自分が醜いと思っている相手によって、自分自身が汚染されてしまってはいないだろうか。悪口を言うことや誰かを批判することは決して悪いことではないとは思うけれど、ただ、その瞬間それによって自分自身が悪に染まってしまったならば、私はそのことを悔しいと思う。

 いかなる悪口雑言でも、耳でそれを直接聞いた場合には、「だれだ、そういうことを言うのは」という形でまず怒りを爆発させるのが普通である。だがその時、返事をしないのが匿名の流儀である。

 このような匿名評論家は、厚顔無恥なふるまいをいろいろ見せてくれるが、なかでも滑稽なのは、国王のように一人称複数の「我々は」という形式で発言することである。しかし、およそ彼らがものを言う場合には、一人称単数形ばかりか、小生はという調子の縮小詞を使うべきである。それどころか、一段と自らを卑しめるような言い方を採用すべきである。たとえば「不肖この私(わたくし)めは」、「臆病狡猾なこの私は」、「卑しき素浪人の私は」などの使用に心がけるべきである。

―ショウペンハウエル著/斎藤忍随訳『読書について』(岩波文庫)p51~52

 

 *まとめ

正直な感想を言うと、あまり面白い本だとは思えなかった。読書についてというのも、最終的には「読まずにすますのが最も良い」的な結論に至っている。あとは、才能のない著作家や多読家に対する批判がズラズラと語られている。ショウペンハウエルの批判は、ひょっとすると的を射ているのかもしれない。しかし小生は、それ以前に「お前はどうなんだ」と思う。偉そうにしている人を見ると、鼻をへし折りたくなる。知識は品性に現れる。偉いからどうした、高学歴だからどうした、それによって他人を馬鹿にするような発言をしてしまったら〔下品になってしまったら〕、その知性は一体何のためにあるのだろうかと思う。まずは『武士道』を読め!と思う。

 

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『五分後の世界』おかしいのはどっちの世界なのか。

 

【#4】村上龍『五分後の世界』(幻冬舎文庫)

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*あらすじ

オレはジョギングしていたんだ、と小田桐は意識を失う前のことを思った。だが、今は硝煙の漂うぬかるんだ道を行進していた‥‥‥。五分のずれで現れたもう一つの日本は、人口二十六万に激減し地下に建国されていた。駐留する連合軍相手にゲリラ戦を続ける日本国軍兵士たち―。戦闘国家の壮絶な聖戦を描き、著者自ら最高傑作と語る衝撃の長編小説。

昔、とある人から『音楽の海岸』という本をもらったことがあって、それが私にとって初めての村上龍作品となった。正直な感想を言うと、エロくて難しくてなんだか読みにくい小説だなと思った。が、ただ漠然と「ガキの私にはまだ分からない大人の世界が広がっているのかもしれない」と(村上龍作品の)奥行きさ的なものも同時に感じていた。本書はSF小説になる。「村上龍作品の面白さが今なら分かるかもしれない」という思いと「SF小説ならガキの私にも分かるだろう」という(相反する?)思いを胸に、本書を購入して読んでみた。

 

1:別世界。

私は学生時代に工場でアルバイトをしていたことがある。派遣のバイトだったので、最寄り駅に集合した10人くらいの作業員が送迎バスに乗り込んで工場へと送られる。こんなことを言うとアレかもしれないけれど、派遣で工場のアルバイトをする者の中には、なんというか、あまり良くない感じの雰囲気を全身に漂わせたおっさんが一定数いる。集合時間は夜だったので外も車内も暗く、おっさんたちの背中から漂う負のエネルギー的なものが車内の空気に伝染していた。誰も口を開く者はいない。暗闇の中で各々がスマホをいじり、それらが不気味に光っていた。ひどく音漏れしたイヤホンで音楽を聴いている者もいる。私は、家々を照らす明かりが高速に流れていくのを眺めながら「今俺は闇の組織に連れ去られていて、これから工場で強制労働をさせられるのだ」などということを思った。車内は完全に別世界だった。今まで自分が居た平和な昼の世界が、まるで嘘だったかのように感じられたのである。

主人公の小田桐が五分後の世界に迷い込み、この世界のシステムを直感で感じ取る場面を読んで、私はそのようなことを思い出していた。

意識が戻ってからずっと、あの、兵士が影のように現れて影のように去って行った時をピークにして、広場での調査にしても、ここの世界はシンプルな原則に支えられているのが肌を通して伝わってきた。ヤクザの組だってもっと複雑だった、金やコネがきくし、わかりにくい序列もあって、システムを憶えるとかなりの融通がきく。だがここは違う、と小田桐は直感で判断していた。ここのシステムは恐ろしく単純で、その枠の外に出るとすぐに排除されてしまう、つまり、簡単に殺されてしまうのだ。

村上龍『五分後の世界』(幻冬舎文庫)p28~29

 

2:カオスな音楽描写。

『音楽の海岸』でもそうだったと思うけれど、村上龍の作品には音楽の描写が多いように感じた。小田桐やワカマツなど様々なキャラクターが、音楽に関するマニアックな話を展開していく。(村上龍作品を読むのは本書でたったの2冊になるけれど)村上龍作品を面白く読むコツは、音楽に関する描写を精読して、脳内でその音楽を流しながら映像を創り上げていくことにあるのかもしれないと思った。すると、その場面の空気感が音を通して理解されていく。しかし、音楽があまり得意ではない私にとって、音楽の描写は非常に難解だった。

ワカマツはポリリズムの隙間という隙間に癌細胞を植えつけるのに成功した。単に音量が大きくなっていくという意味ではなく、癌細胞は増殖していく。アコースティックな打楽器音とシンセサイザーの音のバランスが変化するわけでもない。リズムの隙間に埋め込まれた電気音の音色と音階と旋律とテンポとハーモニーが、それを聞く人の中に入り込んで増殖していくのだ。打楽器という魚の中にいた小さな卵を一緒に食べたようなもので、卵はやがて大きくなり、丸い頭と細長い尻尾を持った寄生虫となって胃の壁に突き刺さり、かすかな痛みを感じるが魚の味と満腹感に酔って何も自覚できないでいるうちに、寄生虫はあらゆる臓器へと血管を伝って泳いでいきすべての粘膜に潰瘍(かいよう)をつくり、やがて脳を侵し始め、そこで人はやっと気付くがたとえ手術をしても手遅れで、精子の顕微鏡写真に似た寄生虫が目の中から這い出てきてただ恐怖のあまり叫び声を上げることになる。演奏が始まってどのくらの時間が経過したのかもう誰もわからなくなっていた。

村上龍『五分後の世界』(幻冬舎文庫)p234~235

 

 3:おかしいのはどっちの世界なのか。

人が簡単に殺されてしまうような残酷な別世界を目の当たりにし衝撃を受けた小田桐は、しかしかえって、このシンプルでわかりやすい世界を徐々に気に入るようになっていく。ゲーテの言葉に「天国にひとりでいたら、これより大きな苦痛はあるまい」というものがある。多分、我々が今生きている世界は天国なのだと思う。食べるものが無くて餓死する心配もなければ、生き残るための殺し合いがそこら中で行われているわけでもない。基本的な安全が保障されていると言える。が、我々はその代償として『個性』を殺してきたのだと思う。個人としてではなく集団として生きることが何よりも優先され、個人の身勝手な行動は絶対に許されない。天国に安住するための代償として『個』を捨て去った人間は、目に見えないストレスを抱えながら生きているように見える。

別世界に迷い込みスパイだと勘違いされて処刑宣告を受けた小田桐の台詞に、村上龍自身の思想が強く反映されているように感じた。

 一言で言うと、と小田桐は答えた。

 気に入った、

「気に入った?」

 妙な顔で警備の責任者は聞き返した。

 疲れたけどな、でも、あんたは知らないだろうけど、オレがもといたところはみんなひどいおせっかいで、とんでもねえお喋りなんだ、駅で電車を待ってると、電車に近づくな、危ないから、なんて放送があるんだぜ、電車とホームの間が広くあいてるから気を付けろっていう放送もある。窓から手や顔を出すなってことも言われる、放っといてくれっていってもだめなんだ、自分のことを自分で決めて自分でやろうとすると、よってたかって文句を言われる、みんなの共通の目的は金しかねえが、誰も何を買えばいいのか知らねえのさ、だからみんなが買うものを買う、みんなが欲しがるものを欲しがる、大人達がそうだから子供や若い連中は半分以上気が狂っちまってるんだよ、いつも吐き気がしてあたり前の世の中なのに、吐くな、自分の腹に戻せって言われるんだから、頭がおかしくなるのが普通なんだよ、ここは、違う、

村上龍『五分後の世界』(幻冬舎文庫)p119~120

 

  *まとめ

年間自殺者2~3万人を輩出するこの世界と、第二次世界大戦で国連軍とゲリラ戦を続ける五分後の世界、どちらがおかしい世界なのだろうか。私は、どちらもおかしい世界なのだと思う。しかし何故なのだろうか、どちらの世界もそれはそれでアリなのではないだろうかとも思う。五分後の世界では何よりも『生きること』が最優先され、生き延びるために命を賭けて国連軍と戦う人間の姿が、本書では美しく描かれている。多分、どのような世界であれ、人間は美しく生きようとすることができるのだと思う。この世界の人間は、目には見えないストレスと戦う。五分後の世界の人間は、生き延びるために国連軍と戦う。どちらの世界にも、必死に生きようとするひたむきな人間の姿がある。本書を読みながら私は「戦え!」と言われているような気がした。

 

『道ありき』虚無の先に、何かが開ける。

 

【#3】三浦綾子『道ありき』(新潮文庫)

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*あらすじ

敗戦による混乱の中で、”自分自身の教えることに確信を持てずに、教壇に立つことはできない。と7年間続けた教職を辞した24歳の著者は、癒しようもない虚無感から二重婚約、さらには肺結核の発病により、絶望の底へ突き落される。本書は以来13年間の闘病生活の中に、自己の青春、愛、信仰を告白した心の歴史であり、著者の歩んだ苛酷な日々に、圧倒される感動の書である。

本書は三浦綾子氏自伝第一作目になる。第二作目『この土の器を』、第三作目『光あるうちに』を、私はまだ読むことができていない。近いうちに読みたいと思う。病床に臥しながら虚無に陥る三浦綾子氏の闘病生活は凄まじく、「世の中にはこれほどの苦しみをも乗り越えながら生きている人がいるのか」と、己の身体がいかに健康体であるか、であるならばその生をありがたく全うしようではないかと、そんなことを思わせてくれる一冊である。

 

1:虚無の中から愛を見出す。

虚無の中に陥ることがある。一日の終わりにベッドの上で横になり、真っ黒な闇を見つめながら様々なことを考える。「なぜ私は生きているのだろう」とか「なぜ宇宙は誕生したのだろう」とか、壮大な問いについて意味もなく考えたりする。そして、いろいろ考えたのち最終的に辿り着くところが『虚無』であった。健康体である私でも、それなりの虚無を抱えるのであれば、肺結核で何年もベッドに縛り付けにされている三浦綾子氏の抱える虚無は、計り知れないものであっただろうと思われる。しかし、そのような虚無を抱えながらも、三浦綾子氏は一人の誠実な男性に心を惹かれるのであった。『愛』。手垢のつきまくった言葉にはなってしまうけれど、それは確実に絶望のどん底にあった三浦綾子氏にとって希望の光となっていったに違いない。どのような状況にあろうとも、人間は常に生きる希望を見出そうとする生き物なのかもしれない、と私は思った。

(戦時中に、お前はまちがって信じたはずではないか。それなのに再びまた何かを信じようとしているのか)結局は、人間は死んでいく虚しい存在なのに、またしても何かを信じようとするのは、愚かだと思った。しかし、わたしはあえて愚かになってもいいと思った。

 丘の上で、吾とわが身を打ちつけた前川正の、わたしへの愛だけは、信じなければならないと思った。もし信ずることができなければ、それは、わたしという人間の、ほんとうの終わりのような気がしたのである。

三浦綾子『道ありき』(新潮文庫)p67

 

2:死ぬことを考える。

真っ黒な暗闇を見つめながら様々なことを考える中で、私もふいに『死』というものについて考えることがある。今、私は生きている。そして、いつかは必ず死ぬ。ひょっとすると明日死ぬのかもしれないし、今この瞬間に心臓は止まるかもしれない。そう考えると、やはり死ぬのは怖いなと思った。が、私は『死』ということについて何も知らないのである。死んだらどうなるのか、死ぬ直前私はどのようなことを考えるのか、当たり前のことだけれど私は何も知らない。もしかすると死んだ後の世界には、今生きているこの世界よりも美しい景色が広がっているのかもしれない。ではなぜ私は、何も知らない『死』ということについてこんなにも恐怖しているのだろうか。こんなことを考える私にとって、死の直前を経験した三浦綾子氏の言葉が、分からないながらも強く印象に残っている。

 この経験でわたしが得たものは、第一に、人間は死を恐怖しているが、いざとなると案外簡単に死を肯定するものだ、ということである。そして第二には、案外自分という人間を知らないで生きているものだということであった。自分が死ぬ時には、多分こうだろうなどと想定してみても、全く思いがけない一面をみせるものだと、つくづく思った。つまり、どれほどもわたしはわたし自身を知ってはいないということである。

三浦綾子『道ありき』(新潮文庫)p99~100

 

※余談

読む本はブックオフで購入している。一冊の本が、安いものであれば100円で手に入る時代に生きていることを嬉しいと思う。ある人は「誰かが既に触った本を手に取るなんて考えられない」などと言うけれど、私にとってそれは何の問題にもならない。世の中には、たった一人の人間がたった一回読んだのちに捨てられる本が大量にある。ブックオフの棚に並べられている本や誰かの手垢で黄ばんだ本を見て、むしろ私は「とても美しいな」とさえ思う。

 

3:虚無の先に、何かが開ける。

本書を読みながら「虚無を感じることは、それ自体そんなに悪いことではないのかもしれない」と思うようになった。自分がやっていることの全てに虚しさを感じるということは、多くの人にとって否定されるべき考え方なのかもしれない。だが、虚無を感じるからこそ際立つ『生きていることの喜び』は確実にあると思う。光と影の関係と同じように、三浦綾子氏が虚無の中にあっても人を愛した時と同じように、どのような状況下であってもそこに希望を見出そうとする人間の強さを、私は信じたいと思う。

「われわれが心に言いけらく、汝楽しみを極めよと、ああこれもまた空なりき。

 われは大いなる事業をなせり。わがために家を建て、園をつくり、もろもろの木々をそこに植え、また池をつくりて水を注がしめたり。われは僕婢(しもべしもめ)を買い得たり。われは金銀を積み妻妾(さいしょう)を多く得たり。

 かくわれは、すべての人よりも大いになりぬ‥‥‥。されど、みな空(くう)にして風を捕うるが如くなりき。日の下には益となるものあらざるなり」

 (中略)

 この地上にあるいっさいを、すべてむなしいと、徹底的に書いてあるのは、たしかにキリスト教らしからぬことに思えた。いったい何のためにこんなことを聖書に書いてあるのかと、わたしはふしぎに思った。聖書というものは、それまでの二、三ヵ月に読んだ限りでは、

「互いに相愛(あいあい)せよ」

 とか、

「人もし汝の右の頬を打たば、左をも向けよ」

 などという教訓に貫かれているもののように思っていた。だから伝道の書のこの虚無的なものの見方は、わたしにキリスト教全体を見なおさせた。

 (中略)

 虚無は、この世のすべてのものを否定するむなしい考え方であり、ついには自分自身をも否定することになるわけだが、そこまで追いつめられた時に、何かが開けるということを、伝道の書にわたしは感じた。

三浦綾子『道ありき』(新潮文庫)p82~83

 

*まとめ

 本書のキーワードとなるのは『虚無』であると私は思う。そして、生きている中で何かしら虚無的な考えに陥りがちな人にとっては、何らかの破壊力を持った一冊になるだろう。この本に書かれてあることにどれくらいの修正が施されているのかは分からないけれど、自伝というだけあってそのほとんどがノンフィクションであるということを考えると、本当に、物凄い人生だなと思う。何年もの闘病生活の中で数多くの困難を乗り越え、ついには病気を完全に治し、愛する人と一緒になることができた。その経験を、彼女は本という形で多くの人と共有することになった。その背後には、ひょっとすると彼女が信仰していた、何か大いなるものの力(神的なものの力)がはたらいていたのかもしれない。